2006年

ーーー3/7ーーー 過酷な納品

 
数日続いていた安定した天気が、この日だけ狙ったように雨となった。その雨をついて、横浜まで納品に出掛けた。

 製品をお客様に納入するのに、近い所であれば自分でトラックに積んで持って行く。直接お客様に手渡しをして感想を聞くことができるし、置かれる部屋への納まり具合などが確認できるので、このやり方がベストだと思う。

 しかし、東京などの遠方だと、高速代やガソリン代を考えると、品物の量にもよるが、多くの場合自分で持って行くより運送業者に頼んだ方が安くなる。だからほとんどの場合、遠方への納品は運送業者にまかせている。その方がお客様の負担が少なくなるからである。

 ただし例外もある。お客様の家の中で組み立てをしなければならない家具の場合は、私が持参して作業をする。二段重ねの食器棚や、ベッドなどがこれに該当する。ベッドは組み上がった大きさでは搬入できないことが多く、普通はノックダウン方式にする。

 今回の品物もベッドであった。二脚ぶんのベッドでも、分解すれば軽トラックで十分に積める大きさである。

 朝7時に出発。高速インター手前のガソリンスタンドで、調子の悪かったワイパーを交換した。ついでにオイルの交換もした。ガソリンは、前日に自宅近くのスタンドで満タンにしてある。その時タイヤの空気も入れてもらった。準備万端である。

 雨の中央高速を走り、八王子インターで下りて、国道16号線で横浜に向かう。ひどく混雑している。信州の、ほとんど渋滞を経験したことのないドライバーには、この交通状況は苦痛である。しかも初めてのルートで不安もある。雨の天気も影響して、憂鬱な気分になり、イライラするが車はノロノロ。

 携帯電話で「だいぶ遅れそうです」と連絡を入れたのに、保土ヶ谷バイパスに入ると急に流れが良くなった。当初の予定時刻12時を少し回った頃に、お客様のマンションに到着した。お客様から「あら早かったですね」と言われた。屋内の駐車場で荷を降ろす。これには助かった。外は吹き降りの雨である。

 お宅は11階。荷を少しづつ移動し、エレベーターで上げる。それにしても、今どきのマンションはホテルのようである。11階まで上がると、東京湾が霞んで見えた。天気が良ければさぞかし絶景だろう。

 ベッドの組み立ては無事完了したが、お客様が手配した収納ボックスがベッドの下に入らない。どうやら寸法を間違えたようだ。ベッドの高さは変えられないので、収納ボックスを持ち帰って改造することにした。木製だから、改造もさほど難しくはなかろう。寸法を間違えたのはお粗末だが、この収納ボックスが入るようなベッドにしたら、高すぎて使いにくかったろうと思う。

 全てが終わって帰路についたのが4時過ぎ。また渋滞の16号線をたどり、八王子で高速に乗った。雨は激しさを増したようだ。雨の夜の中央高速道。スピードを控えめに走る私の軽トラのわきを、どんどん他の車が追い抜いて行く。それぞれの思いをつめたように突っ走る。そのたびに水煙が舞い上がり、路面に滲んだテールライトが遠ざかって行った。

 激しい雨が、岡谷トンネルを出た瞬間に雪であった。目の前が真っ白になった。路面にも雪がたまっている。この状況では、以前乗っていた二駆のトラックでは冷や汗ものだったろう。現在使っている軽トラは四駆なので、動けなくなる心配は無い。それでもスリップが怖いので、速度をぐっと落としてゆっくり走った。

 安曇野も雪だった。ヘッドライトに照らされて、雪が乱舞する。暗黒の闇からポッと現れた白い点々が、フワッと目の前に広がり、後ろへ去って行く。疲れで半ばぼんやりした頭に、その光景がやけに美しく感じられた。

 9時半過ぎ、ようやく自宅に着いた。道路から曲がって入るときに、積もった雪で車輪が空転した。そこで初めて四駆のスイッチを入れ、残り3メートルほどを進んで終了した。



ーーー3/14ーーー 家具の見え方

 昨年10月の新百合ケ丘での展示会に出品した作品の一つ「コーヒーテーブル」を、あるお客様が思い出したようにお買い上げ下さった。都心のマンションに構えた事務室の小さいスペースで、一人で食事するテーブルとして使うとのこと。

 先日そのお客様とお会いする機会があったのだが、開口一番「あのテーブルは素晴らしい」との言葉を頂いた。単なる褒め言葉かと思ったら、話の内容は興味深いものだった。

 新百合ケ丘の展示会場では、特に良い品物とは思わなかったと言うのである。良くないというわけではないが、良さに気が付かなかったと。それでも手頃なサイズで、雰囲気がそこそこ気に入ったので、購入したとのことであった。

 自分の部屋に置いてみて、見え方が全く違うのに驚いたそうである。形態のバランスの良さ、細部の加工の優美さが際立ったと言うのである。しかも自然光の下で現れる陰影のグラデーションがとても美しいと。「心が落ち着く感じ、まるでペットと共にいる感じ」だそうである。

 この話を聞いて、別のお客様の似たようなケースを思い出した。

 やはりある展示会で出品した品物 (アームチェアCat) を、後日お宅へ椅子のサンプルの一つとして持参して見て頂いたら、お客様は「展示会では気が付かなかったが、とても素晴らしい」と褒めて下さった。そしてどうしても欲しくなり、奥様とやりあったあげく、ご自身専用としてお買い上げ下さった。これも、自宅の部屋に置いてみて、初めてその良さに気が付いたとのことであった。

 いずれも展示会がきっかけで品物が売れたのだから、展示会はやってみるものだということになるが、見え方が違うというのは少々気になるところである。

 良い家具というものは、部屋の中に置くと、まるでもともとそこに有ったかのような印象を受けると言われる。逆にそのような家具が、その環境にとって「良い家具」ということになるのだろう。

 展示会場で使われることを想定していない家具が、展示会場で「良い家具」に見えることは無いのであろうか。部屋の大きさ一つを取っても、展示会場のように大きなスペースと住宅の居室では、家具の見え方に大きな差が出ることがある。

 逆に、大きなスペースで良く見える家具は、住宅の中の限られた空間ではどうだろう。大きなスペースで良く見えるということは、存在感がある、サイズが大きい、派手な意匠であるなどの理由によるだろう。そういうものを住宅の中に入れたら、どう見えるか。また長年に渡って身の回りで使うことに馴染むだろうか。

 ともあれ、私の地味な作風でもなおその良さを発揮できるような展示会のやり方が、今後の課題となるだろう。



ーーー3/21ーーー 久しぶりのスキー

 15日の水曜日にスキーに行った。平日にスキーに行くなど、会社勤めの方から怒られそうだが、その代わり土日も働いているのだからご容赦願いたい。

 昨年は一度も行ってないので、二年ぶりということになる。毎年一回くらいはスキーをしたいと思っているのだが、なかなか行動に移せなくなってきた。二年前も数年ぶりだったと思う。一番近いスキー場なら30分で行けるのに、このものぐさは何だろうか。

 学生時代はスキーに熱中した。しかしそれは、スキーを楽しむということではなく、上手くなりたいとの一心からであった。私が所属していた大学山岳部は、山スキーも盛んだった。現代と比べれば、まだ山スキーが珍しいくらいの時代だった。装備も格段に悪かった。その山スキーで泣かないためには、まずゲレンデで訓練を重ねて、スキーの技術を身につけなければならなかったのである。

 何でも同じだと思うが、少し足が遠のいてしまうと、以前は熱中していた事でも、なかなか取りかかれない。今回もさんざん迷った挙げ句の行動であった。しかし条件の良さが後押しをしてくれて、なんとか実現にこぎ着けた。

 条件はベストであった。まず天気。前日まで季節外れの寒波で冷え込み、スキー場には新雪が降った。当日は移動性高気圧がやってきて、雲一つ無い快晴。それとリフト料金の条件も良かった。というのは、このスキー場、毎週水曜日はメンズデイと称して、男性は格安となる。

 かくして、今年最初の、そしておそらく最後のスキーに突入した。晴天といっても気温はまだ低い。登山用の防寒着に身をかためた。そして両手に毛糸の手袋。ベレー帽にサングラス。いかにも中高年スキーヤーのいでたち。しかしMDウォークマンのヘッドホンから頭蓋骨に流れ込むのは、高一の娘から借りた槙原敬之の最新アルバム。気分は20代である。

 このところ週に二回くらいのペースでジョギングをしているので、体力にはそこそこ自信があった。それでも、体の固さが気になる。転倒したら骨折するかも知れない。とにかく慎重に滑らねば。

 リフトに乗って見る斜面は、やけに緩やかに見える。馴染みのスキー場の、何度も滑ったことがあるスロープだが、こんなに傾斜が緩やかだったかと思う。しかしリフトから降りて斜面の上に立つと、けっこう急だった。

 それでも圧雪してあるスロープだから、何ということはない。昔取った杵柄で、スルスルと滑り降りる。二年前は滑り出しに少々怖い気持ちがしたが、今回はそんなことも無い。「なんだ、けっこう滑れるじゃないか」という感じ。

 若い頃からの習慣で、滑り出したら休憩はしない。休むのはリフトに乗っているときだけである。ゲレンデに座り込んで休んでいるスノーボーダーたちを尻目に、スロープ一枚をノンストップで滑り降りる。下に着いたらすぐにまたリフトに乗る。そして次々とスロープを変える。そんなことを繰り返す。

 雪山で見る青空は美しい。太陽は吸い込まれるように鮮やかだ。その空の下、まだ完全に雪の鎧をまとった北アルプスの峰々が、手が届きそうな距離に展開している。実に雄大な景観だ。雪に埋もれた樹々の林も美しい。スキー場という極めて人工的な場所ではありながら、やはり雪山の美しさには心が和む。

 気持ちは若くても、体はそうではなかった。一日券で目一杯、夕方まで滑るつもりが、午後2時頃には限界となった。足がガクガクしてきて、踏み堪えられなくなってきたのである。だましながら滑ることはできるが、もはや楽しくは無い。一人でレストハウスに入って休むのも嫌だ。

 というわけで、後ろ髪を引かれる思いを残しながら、お開きとした。軽トラの荷台に板と靴を放り込み、まだサンサンと陽が照るスキー場を後にした。

 ところで、昨今のスキー場は、スノーボーダーばかりである。スノーボード場と名を変えた方が良いくらいである。スキーヤーは十人に一人もいないだろうか。こうなると、スキーを履いている者は異端者である。別に差別されるわけではないが、なんとなく居心地が悪い。昔のようにスキーヤーだけの世界であれば、見知らぬ者どうしでも、何となく共感のようなものがあった。今はそのようなものが無い。スノーボーダーの間をぬうようにして滑りながら、妙な孤独感があった。



ーーー3/28ーーー フォーレのレクイエム

 この二ヶ月ほどの間、工房のCDプレーヤーから日に一回は流れるのがガブリエル・フォーレのレクイエムである。

 先日亡くなった私の父は、モーツァルトのレクイエムが好きで、よく大きな音量で聞いていた。それと比べるとフォーレのものは出番が少なかったが、それでもたまに聞いていたようである。父のミュージック・テープのコレクションの中には、はるか昔に私がレコードから録音したフォーレのレクイエムが入っていた。

 父の葬儀のときに、これら二つのレクイエムを会場に流すことにした。儀式の最中は無理だが、始まる前と直会のときにはOKということになった。

 モーツァルトのものは自宅にCDが有ったのだが、フォーレのものは昔買ったレコード盤しかなかった。そこで、名古屋から葬儀に駆けつけた娘に、途中でCDを買ってくるように頼んだ。CDショップから電話してきた娘が、店頭に並んでいる品物を読み上げた。私はその中から、ダニエル・バレンボイム指揮、パリ管弦楽団のものを選んだ。

 この演奏は、ギョッとする迫力であった。曲のイメージが変わった。

 私がはるか昔に買ったレコードは、ミシェル・コルボ指揮、ベルン交響楽団のものであった。ジャケットに「これは最高の演奏だ」と音楽評論家が書いていたのを鵜呑みにして買ったものである。このアルバムは、少年合唱団を使い、ソロをボーイソプラノでやらせているところが変わっている。それが非常に素晴らしいと言う人もいるが、私には訴えるものが希薄な演奏という印象しか無かった。

 今回のバレンボイムのCDは、たいへん激しくダイナミックなものであった。綺麗さ、美しさだけを追い求めたようなコルボの演奏とはえらい違いである。まさに鬼気迫る演奏と言うものであった。

 私はこのCDに満足したのだが、ちょっとインターネットで調べてみたら、数あるフォーレのレクイエムのCDの中で、これといった評価は与えられていなかった。少しがっかりした。そうしたら他のCDに目移りがした。アンドレ・クリュイタンス指揮、パリ音楽院管弦楽団のものである。1962年録音のものをCD化したものだが、この曲目の決定版とも言うべき歴史的名演奏だとの評価であった。クリュイタンスの指揮は、過去に別の曲目で聞いており、気に入っていた。私はどうしてもそのレクイエムが聞きたくなった。

 世の中には、一つの曲目をいろいろな演奏家のアルバムで楽しむというクラシック・マニアがいるそうである。私にはそのような趣味が無い。好きな演奏家のアルバムだけを買い、それを繰り返し聞くことで満足するのが私の聞き方である。しかし今回は例外となった。ネット通販で、クリュイタンスのCDを「買い物かご」に入れてしまったのである。

 翌日届いたCDを聞いた。うーむ、これが古今最高の演奏かと思った。コルボの演奏よりは明瞭であるが、バレンボイムのものよりは地味であった。しかし、素晴らしい演奏であることは、繰り返し聞くうちに理解された。極めて重厚で、深い精神世界を感じさせる演奏である。これと比べるとバレンボイムのものは少し飾ったようにも感じられた。鎮魂歌としてどれが相応しいものなのか。聞く人によって三者三様の答えが返ってくるだろう。

 それにしても第4曲の「Pie Jesu」は、クリュイタンスのCDが白眉である。と言うより、ソプラノのヴィクトリア・デ・ロス・アンヘレスの歌が素晴らしい。とかくクラシック音楽の歌声にありがちな「わざとらしさ」や「気取り」が無い。素直に心の中に入って来る。歌詞の意味が分からなくとも、聞くうちに涙が出るような歌声なのである。 




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